登久姫(とくひめ) 天正4年(1576年) - 慶長12年10月18日(1607年12月7日))。
徳川信康(徳川家康の長男)と徳姫(織田信長の長女)の長女で、
松本城三代城主(小笠原氏初代城主)・小笠原秀政の正室(妻)でした。
法名は峯高院(ほうこういん)といい、史料によっては「福姫(ふくひめ)」という記載もあります。
家系図の通り、織田信長と徳川家康の血を引く孫でした。
父・信康は徳川家康の嫡男として生まれ、ゆくゆくは徳川家の家督を次ぐ人物でしたが、織田信長の怒りをかい切腹に追い込まれてしまいます(諸説あり)。その後徳姫は娘2人を残して故郷である美濃へ帰ってしまいます。
このとき登久姫はわずか4歳。それからは祖父である家康に育てられ、13歳で小笠原秀政の正室として松本城へ輿入れします。
この婚姻により、小笠原秀政は有力な譜代大名となりました。
それから松本城での生活を経て、下総、飯田へと移りほうそうを患って亡くなってしまいます。享年31。
お墓は長野県飯田市の峯高寺にあります。
最初に登久姫のキャラクターデザインをしようと考えたのは、松本城には誰が住んでいたのか調べるところからでした。
その際に知ったのが、小笠原秀政公とその正室である登久姫様でした。
そのような流れもあり、登久姫はもともと松本城の擬人化のようなイメージで描き出したのが始まりです。
髪型について
まず髪型について最初にイメージしたのが松本城5重6階の天守。
下図のように、前髪を含め二つ曲げまでのいわゆる“姫カット”の部分を5段入れてあります。
この天守特有の5重6階という数え方は、実際には6階までありますが、外から見ると5階に見えるという意味です。
松本城では3階の部分が外からはわからなくなっており、窓もありません。
服装について
松本城が黒いお城であり、別名「烏城(からすじょう)」とも呼ばれていることから黒を基調とした服装にしました。
また橋や月見櫓などに赤(朱色)が使われているのでポイントとして使用しています。(ポイントの面積が広すぎた気もしますが)
また最初に作画したものの帯の部分には小笠原家の三階菱と、扇子には徳川家の三つ葉葵の紋を入れてあります。 |
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着物の柄は牡丹の花を多く使用しています。
これは
「小笠原牡丹(おがさわらぼたん)」の逸話が由来となっています。
小笠原牡丹についての詳細は右の説明札をご覧ください。ちなみに小笠原牡丹は月見櫓手前に咲いております。見頃は毎年5月10日前後。 |
小笠原牡丹 案内札 |
登久姫着物・浴衣 |
公式衣装の設定について
これまでは登久姫さまをデザインするにあたり、主に松本城関連のみのイメージにてデザインしてきましたが、登久姫プロジェクトの新設により登久姫様がこれまで住まわれた土地土地の名産などを盛り込んで公式の衣装をデザインしました。